下地玄信につづけ


平良市の各小中学校では、毎年3月の卒業式がくると、
下地玄信の激励の祝辞が代読されるならわしになりました。
下地はその祝辞のなかで、つぎのように生徒たちを激励しました。
「私の小さいころとこんにちとでは、いろいろ世の中も変わっ  おりますが、
お互いに少年時代を学校ですごすことや、学よものの

心がけは、少しも変わらないと思います。

私の学校時代の理想は、健康に注意して長生きすること、学業成績で一番であること、いつも大望をいだいて努力することの3つありました。

健康であることは、一生を通じてぜひ必要であり、このためにはいじスポーツをやったり、その他健康維持に心がけるべきです。学業成績一番主義は、たんに一番になるということではないが、自分で一番になりたいと決心したら、それが実現できるか否かが問題です。

自分で自分の力を試験して、自信をつけることです。この自信がつけば、世の中に出てからも、なにか理想を実現するのに大いに役立つのであります。その自信、すなわち自分の実力を学校時代に養いたいのです。

人の成功というものは、地位、名誉、財産などの場介であります

 
平―校児童を激励する下地玄信が、私のもっとも尊敬する人間像は、社会人類に対いまだ国家に
対し、より多く奉仕し、より大きい幸福を与える人々であります。
私の大望というのは、このことで、この大望をなしとげるためには、日夜、一生をつうじて堂々、努力する必要があります。
私は以上の3点を、一生の理想としているのであります。皆さんも学校時代は、せいぜい一番を目ざして勉強され、
卒業して実社会に出られてからも、健康に充分注意されながら、大いに国家社会のために役立つ大人物になられるよう希望して、
私の祝辞といたします」
さらに、学業成績優秀で、心身ともに健康な児童生徒には、賞状のほか下地玄信自身のかいた色紙などもおくられました。

 
 
 けんしよう き せいかい
下地玄信氏顕彰期成会


国づくり、町づくりの基礎は、人づくりにある。宮古のように、資源のとぼしいところでは、なによりもまず人づ
くりが急務であって、だからこそ後進の子弟育成のため、物心両面にわたって、できるだけのことをしたい……。
 一一と、かねてより心ひそかに信念をもやしつづけていた下地玄信は、故郷を遠くはなれて、大阪にいても、心はいつもこうしたことでいっぱいでした。
宮古島や沖縄本島の学校に、図書やピアノをおくるほか、年60万円の基金をもとに、奨学会を設置して、犬学や犬学院に進学する有望な学徒に対して凱援助をおしみませんでした。
いや、そればかりではありません。1千万円という大金を、沖縄県の育英会にボンとおくったのです。
また、博愛精神は最高の道徳であって、世界の平和もこの精神をもとにしてはじめて達成できるというかたい信念から、博愛記念百年祭には、私財を投じて碑を複製レ世の感動をよびました。
こうしたかずかずの功労に対レそのぽかり知れない徳望をしたって、人々はうって一丸となって、下地玄仁を々がく匪こ
 
下地玄信氏顕彰期成会
何とぞ右の趣旨に御賛同下さいまして、この事業の達成のために、ますよう心からお願い申し上げます昭和四十八年二月
れは「博愛精神は最高の道簿であり、世界平和もこの精神を基調として達成出来るものである」と
いう氏の固い信念から、この博愛精神を永く後世に伝え、受け楸がせていこうという美しい郷土愛
の精神からほとぼしり出た結咄だといっても過言ではないのであります。
下地玄儒氏は昨今肖われろ生涯教育の先駆者で未だに向学の念にもえ数十年Kわたりこれを実践し
っづけていることも有名で、これも身を以て後進子弟の人づくりのため卒先重範しているところで
あります。
そのほか、同氏か郷里の後進子弟の人づくりのため尽されている功績は枚挙にいとまないほどであ
ります
ここにわれわれ有志は話し合いの結果「下地玄信氏顕彰期成会」を結成して、子弟教育の範として
同氏の徳望と業績を永遠に伝えるため、銅像建立ならびに伝記編纂計画の運ぴとなつたのでありま
す。
あたり、
されたことは衆知の通りであります。こ
てヒピ割れをきたし、移転も不可能だときくや浄財を投じtこれが複製を企画、百年祭記念式典に
でもなく、小屋毛にある博愛感謝記念碑が畏い風雨にさらされ
とも忘れてはならない功績だと耳えろのであります
さらに下地玄償氏は郷土宮古が世界に跨る博愛美談の顕揚のためにも惜しみない協力をよせられ博
さらに全沖縄の子弟育成のため
して一千万円を醵金してあるこ
の書籍を各文庫設置校あて送りっづけ、また下地玄信奨学会を設置して宮古の各高校から大学へ進
学する奨来有望な学徒に対しては毎年五人を選び月一万円づっの奨学資金を贈りさらに平一小学校
創立九十同年K当っては同校の奨学資金として百万円を寄贈、同校体育館建設を記念して五〇万円
の備品(ピア乙購入費を贈るなど後進子弟の育成によやる赤誠はまことに感激の極みでありま
す。
            下地玄信氏顕彰期成会趣意書
てつたえるため、顕彰期成会を設立しました。
学校、平良第一小学校、宮古高校および故里高校などにはそれ
ておられます。例えば平良北小
和三五年の第三回アジヤ太平洋会計士会議の実行副委員長としてその敏腕をふるい、昭和三七年第
一回国際会計士会議がロンドンで開催せられるや日本代表として国際舞台で活躍、昭和四十一年に
は日本公認会計士協会顧問、同近畿支部長に推戴さわ、また大蔵省国有財産審議委員を委嘱される
など国際的にも国内的にも目層しい活躍をつづけておられます
一方、下地玄信氏は、国づくり、街づくりの基盤をなすものは人づくりにあるとし殊に宮古のよう
な資源の乏しい地域にあつては、なによりも先ず人づくりが最優先される,{きであるという執念に
下地玄償氏は大正
大阪において公認会計士として盾曝、昭



 昭和47年、2月7日一一一一。
 第1回設立総会が、平良市文化会館でひらかれると、大阪でもこ
の主旨は広く賛同され、砂川恵美らを中心に力強い協力がちかわれ、
平良市でも砂川恵敷や砂川恵一、山内朝保らが立ちあがりました。
 顕彰期成会の目的は、下地玄信の銅像を宮古に建立し、同時に下
地の生涯を記念するため、その伝記を編さんすることでありました。
130



悠々自適の生活




庭の手入れをたのしむ
もはや80の坂をむかえ、いまなおかくしやくとして、精神的にも、

肉体的にも、まったく壮者をしのぐ下地玄信は、今日も、元気な姿
を事務所にみせました。
 毎日、他人の二倍努力しようとちかった長年にわたる努力主義が、
とうとう人生の勝利者として、こんにちの彼をむかえたのです。
 思えば遠いその昔一一。
 恩師の先生がたから、西郷隆盛のようにえらくなれとはげまされ
た二と。
 中学時代に、ナークー小と学友だちからけいべつされて、それが
勣機ではっぶんしたこと。
 上海の同文書院で、沖縄人とけいべつされ、くやしさのなかがち
発奮して、とうとう一番で卒業したこと。
 思いもかけず、竺他の炭鉱で坑夫として働かされて、血みどろな
生活にあけくれたこと。
 
 

また東京では、犬震災におそわれて犬阪おちをしたが、さまざまな波乱をのりこえて、
いつも逆境にうちかって幸運にめぐまれ、今日の地位と名誉と財をかちとったこと。
ひろびろとした大阪の豊中の大邸宅の庭一面に、いまをさかりと咲き乱れる草花をながめ、
大空にうかよ白雲をあおいでいると、過去のいろいろなできごとがうかんでは消え、
消えてはまたうかよのです。入生け山あり、川あり、谷ありだ。逆境を征服してこそ、大成がまつ。


自宅でくつろぐ


逆境こそは成功の母であり、師である。20数年のあいだ異民族に支配された沖縄も、
それを逆境と思えば、おのずから前途は洋々だ。いよいよ晴れて祖国に復帰した
郷土沖縄を恋うる感慨は、だれよりも強く大きかっか。



 名もいらぬ、金もいらぬ、名言もいらぬといった犬西郷の教えが、
逆に下地にそれらのものを与えた因果の不思議さに、しみじみうたれるのでした。
 
 


















佐藤栄作前首相と談笑




















烈々たる愛郷心に燃え、郷土の子供たちにかずかずの光を与えた下地玄信こそは、育英の父として長く歴史にのこることでしょう。
 




 
川満 一彦
下地 よしえ
荷川取 明美
かめがわ まさよ
金城 英浩
 
 
伝記の出版について平良 重信
 下地玄信氏について、今さら、多く語るごとはない。沖縄出身者と
して、それほど知名度も高く、また、傑出した人物であるからであ
る。
 本土に行くたびによく聞かされる比喩に「東の大浜、西の下地」
という言葉かおる。これはいわずと知れた、東西に並び立つ両雄、
大浜信泉氏と下地玄信氏に関して限りない尊敬をこめて語られる場
合に出てくることばである。
 大浜氏が八重山の生んだ学界の偉人であるならば、下地氏は、宮
古の産んだ偉大なる財界の人物であろう。
 近く、下地氏の顕彰事業として、伝記が刊行されるが、私はその
一冊の本の中に一人の人間の人生の重みを、ひしひしと感ずるであ
ろう。その重みが読む人の心を打ち、後の世代に伝承されることを
切に希うものである。
 下地氏は都心をはなれた豊中の丘陵に、悠々迫らざる自適の人生
をたのしんでおられるが、今なお、警鐘として活躍をつづけられる。
私は上阪のたびに囲碁のお相手をつとめさせて頂いているが、その
風格が勝負の中に彷彿として現われ、胸を打たれることがある。
 戦前・戦後のきびしい社会で、特に、沖縄県人に対する差別のあ
った中で、日本の一流人物にのし上り、国際人としても活躍なされ
               136
るまでに大成された下地氏を語ることは、われわれ几庸のなすべき
ことではない。
 ただいえることは、大浜氏が、政治活動の中で沖縄県民を数う道
を見出した、とすれば、下地氏は沖縄県民の人材養成の中に沖縄の
将来を予測していると推察するのは失礼に当るだろうか。それほど
に下地氏は数多くの浄財を郷土の育英に、人材の発振に投じている
のである。
 こうした下地氏の情熱と御厚意に報ゆる道は、下地氏の後をつぐ
人物の輩出以外にはない。
 その意味で本書が、沖縄県人はもとより、多くの方々の啓発とな
り、平和な社会の礎となることを念願するものである。
 最後に、下地氏が好んで使われる言葉を引用したい。
  「地球儀を廻して、宮古池を指してごらんなさい。そこが地球の
中心である」
 下地氏は常に、御自身が地球の中心に生き、地球の中心で働いて
おられる、という自覚のもとに人生を貫かれたのである。牢舎を千
にとられる方々が、そのことを念頭にして、下地氏を理解して頂け
れば、わたしの喜びであることを附記して、推せんのことばとする
ものであります。
(下地玄哲氏顕彰期成合本部長・平良市長)

    137


W
下地さんの伝記出版に際して
豊川 忠進
 私が下地さんと知りあったのは、大正13年で、満で50年になり                                ひえき
す。その間、両者の交友は深まり、私は彼に数えきれない程の稗益を蒙っている。

下地さんは、私の知る人の中で最も温厚篤実な方で、50年もの交わりの中で、他人の批評や悪口をいったり、また口論などをしたことを見たり聞いたりしたことはない。

いつも厳然たる態度で、心の内は常に春風が吹いていて、他人を憎むなどの様子は少しも感じない。私は職業柄、理屈っぽく、主義・主張を通すため、口論をしない日はないが、これに比べ下地さんの君子ぶりは、うらやましいかぎりである。このように、生れながらの資性が、下地さんを大きくした基礎であるものと信じている。

下地さんはまた、心底からの郷土愛に充ちた人で、沖縄に生を享けたことを幸福だとし、これを引きたてながら今日に至っている。 大正13年、初めて大阪沖縄県人会が発足したが、比嘉賀盛、正子夫妻らを初めとして、当時の若い愛郷者たちの懸命の努力で盛りあがり、那覇市が初めて爆撃をうける時までつづいた初代からの会長あった故渡口精鴻博士が東京に行かれたので、副会長であった私と下地さんの二人で、お世話をすることになった。ここで特に申し
述べたいことは、下地さんは会合のたびに、江州商人の例を引いて、[今の江州商人は、大阪商人の中心をなしているが、彼らは何れも、郷里江州から風呂敷づつみ一つを抱えて大阪に来て何十年かの辛抱をつづけ、今日の大をなしいる。我等沖縄人は、これによさ
るとも劣らないパイオニヤ精神に富んでいるから、幾年ならずして、
これらによさる沖縄商人の出来ることまちがいない……しっかり辛
抱しようではないか……」
 と、声を大にして叫びつづけられたが、この下地さんの激励と予
言はあたって、その通りになりつつある。
 下地さんは、心のやさしい人であると共に、非常に勇気のある方
である。カヽつて此花区の料亭常磐で県人会の忘年会があったとき、
なぜだか知れないが、多数の暴漢たちが襲来する、との情報があっ
て一同騒然となった。このとき、下地さんは、羽織袴の姿であった
が、この報をきくや、すっくと立ちあがり、玄関前で仁王立ちにな
り、腕をまくして、「くるなら来てみろ……」と言わんばかりに、半
とさほど待ったが、その威に怖じけたのか、暴漢たちは遂に現れなか
ったことがある。
 私の知る下地さんは、知と仁と勇をかねそなえた人で、畏敬の友
として誇れる存在である。              (弁護士)
               139
下地玄信先生の七人がら
比嘉 正子
 下地先生と私との出合いは、大正13年、沖縄県人会が始めて大阪
に発足したとき、ちょうど私か19才で貧乏な神学生の一人として参
加した時でした。
 観察力のとばしい、ジヤコ一匹の値打ちしかなかった当時の私の
出ニうつった下地先生のプロフイルは、日本人離れのした巨躯と、
外人の上うな風貌は、粋な男性にうつったものです。
 また、リーダーとしての素質も充分で、実に頼母しい先輩におも
われました。
 以来、長い歳月の流れを経てきて、今日では時折、会合でお目に
かかる程度ですが、現在の下地先生はますます円熟芒れ、日本公認
会計士協会をここまで引っぱってこられたその業績は、さすが日本
の名士として私の最も尊敬する人の一人でもあるのです。
 また一面、粋な風格の割に、派手な活動よりむしろ地道でこまや
かな思いやりのある行動で今日まで実践されてこられたものです。
 先生のすばらしい善意による行動も、私達がそのことを知るまで
には、上回どの時間を必要としたほど、何事にもひかえ目で、諌言
なお人柄がここにもしのばれるのです。
 先生はまた、激動する社会情勢の中にあっても常にその進むべき
方向と物事の調和をおやまらせず、県人を指導し示唆してこられた
               140
ことも有名です。
 思えば、沖縄県人会の初期(大正13年)の頃は、世はまさに不景
気と失業の時代で、沖縄からの出稼ぎ労務者の人々が大阪に押し寄
せた時代であったのですが、本土の労務者より劣悪な労働条件と低
賃金で、これらの人々が働かねばならない現状であったのです。こ
のような不平等の労働条件を是正するためにと、県人会を組織した
のがその設立の主旨でもあったのです。
 その当時の県人の名士と言えば、医学博士の渡口精鴻先生、弁護
士の豊川忠進先生、若さ公認会計士の下地先生、それに平尾大阪支
店長の平尾活松さん(この人の兄が元貴族院議員)とそれは立派な
指導者がそろっておられました。それに、中堅的活動家として新聞
記者の井之目政雄、松本三益、前田三郎、富田幸太郎、志賀進、浦
崎康華、それに私の土人で当時三井銀行におりました比嘉賀盛と、
実に多士済々の顔ぶれでありました。
 このように役者がそろっていたので、会議はいつも談論風発、熱
気があふれる討論がすすめられるので、自然各地区毎に県人会の支
部が結成され、ふくれる一方の組織づくりが形成されたものです。
特に血の気の多い若い中堅活動家の集まりで、目ざすことが「下積
み県人労働者の地位向上と不平等の撤廃」であっただけに、いきお
               141
-
いその言動も闘争的になりがちでありました。時には危く組織の分
裂の危機に遭遇したことも幾度かありました。
 新町にあった平尾商店の二階で拡大役員会が開催されたとき、下
地先生が懇々と諭されたことを、私は今もって忘れられません。
  「ニの場で我々が手を引いて県人会を見放したとしたらどうなる
のか。県人会が過激な集団へとっつ走ることになる。そうなると社
会からも、また職場からも締め出され、県人の地位向上どころのさ
わぎではない。ここで踏みとどよって分裂をさけるべきだ」
 と、涙ながらの発言に分裂が回避されたというエピソードもあり
ました。
 よく今日まで県人会が中道を歩んで来られたのも、下地先生のお
かげであったと言っても過言ではありますまい。その後、大東亜戦
争に突入して、国を挙げての総動員のために県人会活動は中断され
ましたが、それでも昭和19年10月10日の那覇大空襲の析には、当時
としては大金であった会の基本金350円をそっくり救援資金として
郷里の同胞におくることをやったのです。それと同時に、県人会運
動も一応停止したことになったのです。
 郷里沖縄の生んだ偉大なる先達、下地玄哲先生との思い出の一駒
を御紹介して、先生がいつまでも県人の光として、ますます御壮健
               142
であられることを祈りつつ、序にかえ石次第です。
                      (関西主婦連合長)
 
玄信先生 ありがとう
仲原真壁悦子
かつ
 拝啓 はじめてお便り差し上げます。
 玄信先生には、八十才の高齢でなお、かくしやくと日々のお仕事
にお励みの由、また絶えず御勉学にもお励みのこと、七れ承り、私
共後輩一同、ただただ頭の下がる思いでございます。
 きて、此の度は、久松中学校のために格別の御計らいで、高価な
ピアノや図書等をお賠りいただくことになり、職員一同心から喜び
感謝致しております。
 郷土の大先輩玄信先生の御業績は、日頃、いろいろ聞かされてお
りましたが、先日、砂川恵英さんから具体的にいろいろ承り、一層、
感激を新たにすると共に、自分たちがこれまで何のなすこともなく、
平々几々に暮してきた日々が聡かしくて反省させられ、これからで
もいい、もっともっと子弟の教育のために努力せねばと、決意を新
たにさせら且ました。
 久松の子ども達は、中学生と申しましても、まだ大そう純真でご
ざいまして、教師の指導いかんによって、いくらでも伸びる可能性
を待っております。
 一昨年は国費の医科大学に一人合格致しましたし、今年の中学三
年生も、また大へん質のいい子が多う二号いますので、私共七人そ
う期待をかけておりますが、何しろ、ピアノも終戦直後の政府補助
               144
でいただいたピアノを使っておりましたので、今ではとても悪くな
り、日々の授業にも困っていたところでございました。また、現代
の教育の心臓と中されております図書館の蔵書の教も少なく、訓告
物をするにも、わざわざ平良市の図書館へ出かけて行かねばならず、
生徒達は大へん不自由をしておりましたが、このたび、玄信先生の
お情けにより、ピアノも、多くの図書も買えることになり、大そう
喜んでおります。
 私共とて、今後、これを有効に生かして使い、子供達の可能性を
大いに仲ばしたいと思っております。
 玄恰先生には、今後ともますますお元気で後輩達のためにも叱咤
激励を賜わりますようお願い致しまして、簡単ですが御礼のニとば
にさせていただきます。                  かしこ
     (神原先生は久松中学校図書主任、真壁先生は音楽主任)
 
げんしん先生へ
すな川 のり子
げんしん先生、お元気ですか。
 わたしは、二年生の、すな川のり子です。
 げんしん先生のことは、先生方や、おとうさん、おかあさん方か
ら「えらい先生」だと、よくきかされます。
 わたしたちのとしよかんには、先生がおくってくださった本が、
たくさん、ならんでいます。
 おかけで、わたくしたちは、たくさんの本を読むことができるの
です。
 げんしん先生は、きょねん、北小にいらっしやいましたね。
 わたしたちは、一年生で、ちいさかったから、先生のお話をきく
ことができませんでした。
 こんど、先生がいらっしやるときは、大きくなっていますから、
いろいろなお話しをきかせてくださいね。
 わたしたちは、先生がおくってくださったいろいろな本を、たく
さん読み、いっしょうけんめいべんきょうをして、えらい人になり
たいと思います。
 わたくしたちが大きくなって、本土にべんきょうにいくまで、ど
うかげんきでいてください。
 いつまでも元気でがんばってください。
               146
そして、もう一ど、北小にあそびにきてください。たのしみにして
います。                  (平良北小学校2年生)
147

 

下地玄信氏宮古奨学会奨学生になって  川満一彦
拝啓
 一足先に梅雨なしの真夏が感じられ、セミの声も珍しくない沖縄
ですけれど、大阪は如何でしょうか。
 巻の休暇を利用して帰省したとさに、下地玄信氏奨学資金の件に
ついて宮古の毎日新聞で拝見し、不肖、応募致しましたが、先日、
奨学生選定通知を受け取り、半信半疑の気持で、何回も親父から送
られた通知書に目を走らせました。
 ばんとうに、家内一同大喜び。ひとえに大先輩方の御厚情、諸先
生方の御尽力のたまものと感謝致しております。
 幼少の頃から大先輩の話を、親父、先生方からよく聞かされ、私
達郷里の者のアイドルとして羨望しておりまし犬。
 宮高在学中に、幸い修学旅行という機会にめぐまれて、直接、南
方同窓会より歓迎してもらい、その時、初めてお目にかかるニとが
でさ、ばんとうに感慨無量でした。
 これらの体験は、私のこれまでの勉強、意思決定において、大き
なモチベーションとして精神的支えとなったことは、今さら言及す
るまでもないことです。
 私は現在、商学を専攻しています。去年11月22~23日の2日開、
几火大学で開催された関西会計学研究会に沖縄大学、琉球大学から
              148
合計8名がオブザーバーという形で参加して各参加大学と交流レ
おのおのサークル紹介、討論公等と、ばんとに意義のある大会を過
ごすことができました。なかでも日頃から座右の書として阪本安一
先生の書を愛用しているため、阪本先生のじきじきの講評、犬合後、
大阪商工会議所での阪本先生の付加価値についての講演等、じかに
学問らしか学問に触れて、いまだに会計学に対するその旋律を思い
おニすことができます。
 今後とも懸命に努力して大先輩の期待に添うようつとめますので、
よろしく御指導お願い致します。
 右とりあえず、お礼まで。                敬具
 6月29日
     (沖縄大学法経商学部商学科3年 会計学研究会委員長)
149

 


㎜■■■■ ■■
M・・ ・〃=-・-=・・
下地玄信氏の歩み
年代譜に代えて
明治27年6月 宮古島平良市に生る。
 海と空の美しいこの島は、珊瑚礁の島で、全島が緑ゆたかである
 ように人の心も美しい。気は優しくて、力もち……。
 小学校を出ると、
明治41年 今西郷といわれたが、わんぱく小僧も待望の沖縄県立第
 一中学校に入学した。
 この頃から、いい競争相手にもめぐまれて大器の芽をのぞかせた。
大正2年 一中を卒業すると、県費学生として東亜同文書院に入学
 した。
大正5年 首席で卒業するや、傑物、森恪に見込まれてその部下と
 して、中日実業公司に入社、直ちに三井鉱山株式会社に出向を命
 ぜらる。処が、ここに待ち受けていたのは、思いもかけぬ炭坑の
 採炭夫の仕事であった。それがやっとのことで済むと今度は、石
 炭の運搬夫……希望の夢を見失なったが、それでも挫けなかった。
大正6年 徴兵で都城歩兵64連隊に一年志願兵として入隊。
大正8年 陸軍歩兵少尉に任官後、三井鉱山東京本社詰めとなり、
 LL年退社、再び森恪の下へ返る。
大正10年から12年 沖縄の燐鉱石採掘ならびに、漁業経営に失敗し
 東京に引き揚げたが、関東大震災に会う。大阪に移住。会計士竹
              172
久松五勇士顕彰碑
明治38年日露戦争当時、ロシアのバルチック
艦隊が宮古近海を北上するのを発見し、高司
の命で久松の若い漁夫5人が80哩離れた八重
山、石垣高へくり舟を漕ぎ「敵艦見ゆ」の通
報をなさしめ、大任を果した。その壮挙を讃
えるため1966年ゆかりの地にこの碑が建立さ
れた。
 内但吉事務所に人所。
大正13年 選挙違反に問われる。
大正14年 会計士事務所を開設したが、アルバイトに大同生命保険
 会社の外交員を兼ねる。
昭和5年 大阪の一流社交クラブ、弁|亘クラブと清女礼のメンバー
 となる(ここから大成の芽がのびだした)。
昭和6年 松井大将の主宰する大アジヤ協会関西支部長となり、国
 事に奔走しだした。
昭和8年 満洲国建国に力を尽す。
昭和9年 大政翼具合発足し、近衛公が総裁となる。大アジヤ協会
 は発展的に解消し、翼賃金の興亜部となり松井大将はその部長に、
 下地は理事としてアジヤ運動に奔走する。
昭和11年 かつて明治6年に、ドイツ商船が宮古近海で遺難したと
 き、島民によって救助され、恩に感じたドイツ皇帝から贈られた感
 謝碑(博愛碑とよばれている)の6o周年記念式典ならびに、日露戦
 争のとき--おそかりし一時間で話題になった久松五勇士の顕彰
 に努力する。
 なお、この年、日独伊三国同盟ができた。
昭和12年 ドイツ国から鉄十字章を贈られる。
               173
 この年から数年間たびたび、アジヤ各国を歴訪し、東京、大阪な‘
 とにおいて、アジヤ会議を開き日本側代表となり、またその議長
 に選ばれる。
昭和16年 太平洋戦争勃発。
 日本赤十字社から、功労章を授与される。
昭和17年 満洲国建国十周年記念式典に国賓の一人として招待さる。
 釜山まで出迎えに見えた鄭総理から、「下地閣下、ようこそ…]と
 握手された感触は、介も忘れないという。
 式後、松井大将と二人で戦闘機に乗ってソ満国境の皇軍を慰問、
 つづいて南京を訪れ、近衛総理からの親書を汪主席に手渡すため、
 堀内大使らに案内され、汪主席と語り合ううちに大いに意気投合
 する。ついで、蒙古その他支那奥地の皇軍を慰問する。
昭和18年、19年 戦争遂行のため数々の投を仰せつかり、昼夜奔走
 をつづける。
昭和20年 敗戦により公職追放。 26年に解かれる。
昭和25年 日本公認会計士協会を作る。副会長に就任。近畿支部長
 を15年間つとめる。
昭和26年 公認会計士試験委員を5年間つづける。
昭和27年 ロンドンで聞かれた第6回国際会計士会議に、日本代表
               174
 として出席する。帰途ドイツに立ち寄り、数々の歓待をうけた後、
 イタリアその他力欧州全域を視察。
昭和32年 国有財産審議委員に任命される。
昭和34年 黄綬褒章を授与される。
 この年、母校の首里高校(旧沖縄一中)に下地文庫を設置する。
昭和36年 京都で聞かれたアジア太平洋会計会議で議長になる。
昭和41年 勲五等瑞宝章を受勲。琉球育英会に下地奨学生制度を設
 ける。平良北小学校に下地文庫を設置。同役体育館に7,500ドル
 で緞帳を寄贈。
昭和45年 メキシコで聞かれたロータリー国際会議に夫婦で出席し
 た後、アメリカ各地を視察。
、出身地宮古に、下地玄信奨学会を設置。
昭和46年 ハワイで聞かれたロータリー会議に夫婦で出席。
 宮古の博愛記念碑を複製寄贈。同百年記念式典に夫婦で出席。平
 良第一小学校に、下地文庫を設置。奨学資金、グランドピアノを
 贈る。
昭和48年 沖縄県育英会に、奨学資金として1千万円を寄附。
 琉球大学図書館に図書および図書購入費100万円を贈る。
 -7-タリー財団への高額寄附により、ポールフェローとなる。
                  (本橋は、砂川恵英の作成による)