全国公認会計士協会をつくる


昭和24年に、日本ではじめて公認会計士の法律が定められると、下地はひきつづき公認会計士となりました。
思えば、20数年玉え、森恪のすすめでニの道にふみこんだ彼は、い玉さらのように新しい時代のいぶきを感ずるとともに、いよいよ
責任の重きを痛感いたしました。
もともと大きな会社を相手に、その経営面や経理面を正しいルートにのせるよう、いろいろな助言などを与える関係から、ひいては
それが国家の経済にも貢献することになり、一方、一般の株土たちをも直接的に保護するというプライドの高いこの仕事に、下地は満足でありました。
しかし、新しい時代のチャンピオンとして、この仕事が一般に認識され、公認会計士の数もだんだんとふえてくると、なんとか同業
者の品位と質をたかめ、おたがいに縦鮭を深めつつ、密接な逓けいをむすびたいと考えました。
まず、大阪と東京を中心に、身近な人だちとぽかりつつ、早急に全国的な一大組織へひろげたのです。

事務所でくつろぐ下地玄信

会社の特つ、いくらかの株の売買を通し、いろいろな会社の内部の事情に明るくなると、どうしてもこれと併行して、広く大きく、
高い次元から国際政治の動向や経済の問題などにも精通しなければならないと思い、一生懸命勉強にはげみました。
やがて、下地の綿密な計画はようやくみのり、その名も、社団法人日本公証会計士協会として発足すると、その副会長に選ばれ、あ
わせて近畿支部の支部長をもかねるようになり、前後、15年の長きにわたってつくしたのです。



秀才急死の教訓


比嘉財定、砂川寵栄、井上寛今は、宮古が生んだ不世出の秀才といわれた人たちでした。
比嘉財定は、とくに群をぬいた秀才でした。
その頭のよさは、他にならぶものなしといわれたばどで、東京帝人を金時計組で卒業すると、彼もまたアメリカの大学へ留学しまし
た。 しかし、おしくもからだをこわし、まもなくなくなってしまったのです。
砂川寛栄は、広島の高等師範を卒業すると、ただちにアメリカの大学へ留学、帰国してからまもなく肺をやんで、とうとう不帰の客となりました。
井上寛今(もと下地寛令)もまた、ふしあわせでした。
東京帝大を優秀な成績で卒業、そのかがやかしい将来性をみこまれて、東京の女性と結婚しましたが、その後ドイツに留学後、不幸
にして、肺をわずらって、若くしてこの世を去ってしまいました。下地玄信は、非常なショックにうたれました。
ことに砂川、井上は、彼にとっては一年先輩、二年後輩という仲

砂川寛栄(左)と、のちの盛島代議士(右)
のよ芒で、兄弟のようにつきあっておりました。何事につけよい相
談相手であっただけに、彼らの突然の死に、下地はすっかりうちのめされてしまったのです。
ゆくゆくは宮古、いや日本的な大人物になるものと、周囲から大きく期待されていただけに、つぎつぎとあっけなく若死にしていく
同燎たちの悲劇を目のあたりにみた玄俗は、この悲劇から健康について尊い教訓を学びとりました。
たとえどんなに頭のよい秀才でも、かんじんな休か弱くては、なんにもならない  としみじみ痛感しか下地は、もうそれからは以
前にもまして、人一倍彼岸に心がけるようになりました。

砂川寛栄の学んだハーバード大学



り玄信の人と石模様


某会社の社長、秋岡幸樹は碁が大変つよく、うでまえは五穀でした。
下地も五穀で、両雄の囲碁の対局が、清文クラブの一室で多数の観戦者を集めておこなわれ、棋譜が大阪の某新聞に掲載されました。
清文クラブでは、これまでもこんなもよおしがひんぱんにおこなわれて、クラブの囲碁熱のさかんなニとは、関係者にも定評があっ
て、その普及もめざましいものがありました。いよいよ窓辺で対決した両五段は、どちらもくちかずが少なく、
おだやかな表情のなかにも、まんまんと闘志をひめているようでした。
1、2と小目で、黒は3のしまり。白は4と、高くかまえる。
細いからだの秋岡は、どこからでもさあこい、と正H長のかまえで、横綱のかんろく充分です。黒はふたたび5の小目、白6とかかる。

対局する下地玄信
五段の免許状黒に7とはさまれて、白は8のこすみ。
黒は9とケイマにとよ-。
いや、全く堂々たるものだ。そばから炭野八段の声。下地玄信はその名のとおり、どこか古武士を思わせる風ぼうで、
玄信という名は、甲斐の武将、武田信玄を思わせ寸、どこかに知略がひそんでいるようです。
白の10が型やよりの千。イと走るのが定石で、またロにつける千もあるが、最近ではイのばうが`多いようだ。
下地は清文クラブの古い会員で、囲碁の愛好会に属していましたが、中学時代からきたえたその腕前は、もういまでは立派な師匠格
になっていました。



今日はヨーロッパ、明日はアメリ力


太平洋戦争で長いおいた中断されていた公認会計士の国際会議が、戦後はじめてロンドンでもよおされると、下地は他の4人の仲間と
ともに、日本代表として遠くイギリスヘのりこみました。数日間にわたって開かれたこの会議は、活発な意見の発表なども
あって、みのりの多い収穫をもたらしました。とくに下地は団長として、得意の英語力を充分に発揮し、日本の面目をはどこしたのです。
会議が終って、みんなと別れた下地は、ひとりドイツのボン市を訪問しましたが、それは十数年玉え、宮古詣で博愛記念祭をもよおし
たとき、物心両百万大変な協力をしたドイツの政府に、お礼をするためでありました。
わざわざ返礼をうけたドイツ政府は、非常に喜んで、手厚い待遇で下地をむかえ、ゲーテハウスをはしめ、ベートーベンの生家やラ
イン下りなど、名所旧蹟を案内して旅情をなぐさめました。ことに、危険をおかしてベルリンヘ案内された思い出は、いつ玉でも心に残
りました。
あけて、ニューヨークとメキシコで、ロータリー国際会議がおこなわれると、下地は再び日本を代表して、その団長に選ばれ、無事

ロータリークラブで(昭和38年1月)

メキシコで(左より一人おいて下地夫妻)任務をはたすことができました。
たびかさなる国際会議の成功も、もともと中学校や同文書院時代に、一生懸命はげんだ英語の力が効をそうしたたまもので、もう一
つは、中国大陸で国際的に活躍、大胆な行動をしたことが、下地を人間的に大きくし、物事に勤しない精神力を養ったこともプラスでした。
また、昭和37年の10月、高松宮殿下のご臨席をあおぎ、アジア太平洋会議を東京と大阪でもよおしたとき、遣米の外国のお客さんた
ちを京都の祇園をけじめ、文楽や雅楽や茶道などで接待レ大変感動させよしたが、これも近畿支部長の下地や幹部の熱意と努力の現
われとして、まちの話題にのぼりました。



天皇陛下に拝謁


思えば遠く、長い人生の遠のりでした。 震災で焼野が原となった東京をあと凪、心機一転、人生の再起を
かたく心に似かって大阪入りをした下地は、公認会計士という仕事をしたおかけで、いろいろな会社の内情にも通じるようになりましたが、
また、財界を通して多くの知人や友人にもめぐまれるようになりました。
企業の財務監査をけじめ、公認会計士の全国的な組織づくりに尽力した下地は、かたときも郷土のことを忘れず、物心両面にわたって、
せっせと援助をつづけ、人々から賞讃と感謝の念でむかえられました。
やがて、下地の長年にわたる篤志は、政府にきこえ、その労を表してあっぱれ黄綬褒章がおくられると、つづいて叙勲の栄にかがや
きました。昭和34年5月3日l憲法記念日をぼくして、黄綬褒章授与の式典が皇居でおごそかにおこなわれ、
関西からは6人の功労者がこの栄誉にかがやいたのでした。

下地は、長いあいだつれそい、人生の苦しさも楽しさもともにしてきた夫人にも、このよろこびを分けようと、ともともに上京、皇
居の奥深く、天皇陛下に拝謁をたまわりました。一文なしから、人もうらやむ億万長者に成功した下地は、少しも
おごらず、たかぶらず、神仏や先祖や社会への感謝を、かたときも忘れませんでした。よいことをすれば、よいむくいがある。
金は、有意義につかえば、必ずまた入ってくる善因善果の教訓は、いつしか下地のものとなり、朝夕きよって、静かに神前にぬかずくのでありました。

砂糖きぴと漁業の島、宮古島では上旬の有力者遡で一つの委員会が設けられた、それは、明年を期して催される、主として
ドイツ皇帝ウイルヘルムー世の遺徳をしのぶ記念祭のためなのである。
当時の一時的な事件が、今日まで六万人の島民の間に記憶され、島民とkイツとを堅く結びっけているのである。
官占島にはウイルヘルムー世が感謝のため贈った記念碑があり、島民はこの記念碑を大切にしこの記忿碑の形のおせん餅を
″博愛せんべい″と名付けて売り出し、今日に至るまで、その頷一をしのび、まこ先人遠の博愛心をしのんでいるのである。以前から日本に帰属している。
現在、沖縄も宮古も米国により支配されているが、一九七二年には、完全に日本に返還されろこと仁なっている。
当時のドイツ宰相ピスマルク侯がベルリンの帝国議会において宮古島の島民を賞賛したこと
また、これがためにベルリンと東京の間に幾多の美しい外交文書が交換されたこと。
ことは注目に値すろことである宮古島におけるドイツ皇帝に対すろ顕彰は、もとちと、一ハ七三年七月における岡島の島民
の善行につながるものである。
それはハンプルグのスクーナー船R、J、口び-トソン号が船長ヘルンシエイムにより、茶を積んで中国からオーストラリアヘの航行中、
暴哨雨に遭い宮古島のサンゴ礁に坐礁した時のく世話をして収容してくれた。
そして三、四日経ってから、一隻のジヤンクにのせて台湾に
忌り更に中国へ送った。そこでこのドイツの一行は本国に対して、宮古島における島民の親切について報告した。
ビスマルク首相は、詞会において、このことについて語り、皇帝ウイルヘルムー世は、これに対し記急碑を印り、なお人類博愛記念碑を訪ねて
ドイツ放送協会特派員ダイエテル、ドールケンこの宮古島の心の美しい人達  さらにドイツ国官報とドイツ ことなのである。
は、昨年、グスタフ、ハイネマ 海軍省とが現地報告を詳細に発  二人の中国人は暴風雨の中で
ン大統領に対し、今でも当時の 表したこと。    
 
でき死し、他の六人のドイツ人カイゼルをしのんでいるという 、および九五年前に官古島におと二人の中国人は、島民の決死
ことIl知りせている、そして来 いて、″WIV、W-IHEI の救助作業で酋われた。年の秋の祭典には、ドイツ政府 
MIVON、GOTTES、G  島民は今まで一度もヨーロツの代表者の出席を期待している NAAEN″と太い文字の彫ら 
パ人を見たことはなかつたので
 宮古島そのものは沖縄群島と れている記念碑が建てβれたこ 最初は、この連中を人くい人種共に、古くは海の中の半独立の と。            ではないかと心配して、すべて王国の形を保ち、中国の朝貢国  そして島民が今日においても の婦女子をかくれさせたくらい
でもあつなが、一〇〇年くらい そのことを忘れていないという であるが遭難者に対しては手篤
愛の実践者への贈物として、皇帝の名入リの金時計五個、銀時計四個、望遠鏡四本を届けて謝
意を表された。記念碑ぷ建てユこ・だ.この三つの石碑は、いずれも三六ツエン
トナーといろ電いものである。
礎石には由来書と七個のヤイツ貨幣が塗り込められた。この使命に対すろ艦長の報告書は軍事報告中の逸品である。
それは、前述の如く一八七六年三月のことである。皇帝の記念碑は現在も宮古に立っている
ただ既に森の端ではなくて、小さな三本のシユロの前で、すっかり建てこんだ島の最大の町の家と家の問にある。
九五年の風雨は、記念碑の文字を洗い億した。それでも、その文章は読める。
そして三年前に、日本から修理人が来て、セメント注射で、それ以上の破損を防いだ。
歴史的な連続性について日本の外務省は、百年ぼかり前に、当時の寺島宗肺外相がドイツ政
日本政府の承認を得てドイツ 府になした約束、即ち、日本は帝国海軍の砲艦シークロツプが 宮古の皇帝I念碑の世話をしま一八七六年(明治九年)沖縄と すといった約束は現在でも有効宮古を防ねた。       tあろと答えた。(日独月報五

その艦長ボン、レイヂエ海軍 月号より)大佐は、それらの贈物を伝達し乗員をして宮古のある森の端に
昭和46年7月15日の宮古毎日新聞の記事

はえあるこの百年祭には、地元の各界代表をけじめ、遠く関西方面の宮古出身の人たちもはせ参レ盛大握におこなうことができました。
 



博愛碑の複製に私財を投ず


数十年玉え、ドイツ遭難船の60周年を記念するお祭りを、盛大にもよおした平良市は、あらためて沖縄の日本復帰を記念して、またその百年祭を昭和47年11月3日にもよおしました。
100年もの長いおいた、風雨にさらされていたもとの記念碑は、平良市の底本港の近くの小屋毛という小高い丘にたっておりますがいたみがひどく、碑の文字さえだんだんと摩滅していったため、原形の保存が心ある人々からいろ
いろ心配されておりました。
下地はこのことを伝え聞くや、心をいため、郷土の美しい人類愛と博愛の精神を、末ながく複世にのこしたいと思い、みすがら300万円の大金を投じ、その複製を思いたったのでした。
さっそく柏原市の石材店に複製を依頼、ばんものと同じ犬きさで、厚さだけ2倍の堂々たるみかげ石の碑を完成すると、はるばる船で、郷里へちくりとどけました。博愛碑(複製)の除幕直後それを見る下地玄信

ドイッ政府を代表して、グリウム・ウィルヘルム大使夫妻もわざわざ東京から参列レおなじドイッ大使館づきの陸軍武官をはじめ、報遺言のほか、日独協会長の三井高陽ご夫妻ら、多くのかたがたが参列して、さらに花をそえました。



60代はハナたれ小僧


「おいっ……下地のチビっ……」
大阪にある健康長万全は、全員のばとんどが80の坂をこえた老人ばかりで、下地と松下幸之肋がいちばん若い会員でした。まだ70歳にもみたないホヤホヤの2人は、先輩たちからチビだの、ハナたれ小憎だのとよばれました。
この会は、月に一度あつまっては、健康についてその道の権威ある先生から、いろいろ有益な講話を聞き、いつまでも若さをたもとうという主旨でひらかれたものでした。
どんなに年をとっても、引退どころか壮者をしのぐ元気さで、いまなお第一線で活躍をしている80歳の老人たちの真剣な姿を目のあたりに見ると、下地は自分などまだまだ青二才で、ばんとにこれからがんばらなくては……と、
つよく反省するのでありました。
健康をつねにモットーに長生さして、少しでも世のため人のためつくすには、つよい意志力とたゆみない精進と努力が必要でした。下地は日課として、日の出まえに寝床をはなれると、まず休操を
 
 
謡曲をうたう下地玄信


こんな一面もある
 
して、朝日が東天にのばりはじめるや、かしわ千を打って犬地神明に感謝の祈りをささげ、大自然にとけニかこと小半とき、「自然と人生の大和こそわが理想」を地でゆくのでした。
それからあと、冷水摩擦、乾布摩擦をおニなってから、静かに食膳に向かい、暴飲暴食はつとめて避け、好ききらいもなく、適度に動植物性をまぜて食事をいただくのが習慣となりました。
なにごとにも無理ぽかんもつで、不健康は心身の加圧から起こることを、誰よりも敏感に知っていた彼は、そんなときなど、軽く好きなことをしては、賢明に疲労の回復をはかるのでした。
明朗で、愉快で、良心にしたがって行勤し、いつも世のためよい


飛弾高山で
おこないをしているという自覚と自信が、ますます彼をはげますのでした。
頭をつかい、広く教養をつむため、7、8人の教授の個人指導をあおぎ、書道や英語や謡曲はもとより、けては日本舞踊にいたるまで、師匠について精進いたしました。
昼間の侑事の多忙さに加えて、いろいろな面にわたって勉強に余念のない下地は、ひまとて全くなく、そのため沖縄県人会の集会などにも失礼することもたびたびでした。
すると、口さがない連中は、「下地はえらくなったもんで、県人会には出てこなんだ…」と、かげ口をたたくのもあらわれました。

 しかし、下地にしてみれば、心外でした。立派な人物になることが、結果的には沖縄人の面目をばどこすことになると信じ、沖縄県人だけの、社主い世界をつくることの愚をい主しめたのです。
〈私の健康法〉  大阪下地 玄信(会計士78歳)
巾 毎朝6時のテレビ体操を怠らない。
② 大穴、星、川、海、山の大自然にできるだけの
 時間接触する。
③ 常ご奉仕の心掛けをする。
 〈私の敬愛する人物〉
豊臣秀吉、率賤より身を起しT犬下を取る。
西郷南側 ビを捨てて天下国家のことを思う。
              (ロータリーの友より)


 


沖縄県育黄金に1千万円を贈る


思えば不思議な古縁でした。小学校のこそから、ずばぬけて の犬きかった下地は、いつしか
「介西郷」と周囲からいかれましたが、二んにちまで、まったく西郷隆盛のような人生をあゆんでさた自分を
よりカヽえると、あらためて因縁のふかさにうた且るのでした。
西郷南州が愛した「散大愛人]の名句は、下地のもっともすさな句で、それはロータリー精神の博愛にもつうじるものでした。白分かニんにちあるのは、小学校のころ、いつもやさしくはげましてく汗た佐矢田先生や武隔先生加たの教訓が、心のささえとなったことを考えると、いかに教育入力加佐大々ものか、あらためて人間をつくる言葉の因果の深剖二感じいるのでした。
教育がわたしの一生を決定したのだ。沖縄から人材が出れば、それがそのまま沖縄の光になる-
そうかたく信じた彼は、それから佐巴の気持を沖縄の教育レ還元しようと決心レ母校、平良牝小学校をはしめ、平良第一小学校、

西郷南州の書
 
沖縄県育英会に奨学金を贈る(昭和48年4月26日)

久松中学校、首里高校に、それぞれ下地フ文庫を設置し、圭だ、各地に奨学生制度をつくるほか、
琉球大学にも同じような好意を示すなど、ひたすら後進の人材育成に深い関心を示しました。
また、昭和48年4月一一一一
下地ははるばる、沖縄県庁に屋良知事をたすね、沖縄県有見分の資金の一助として、特に英才教育のため、1T万円の私財を投じ、人々から賞讃の拍手をおくら且ました。
汗水ながして働いたお全て、自分をこんにちあらしめた郷土沖縄のために、ご恩がえしかしたい  
これが下地のいつわりのない心境だったのです。
 

ポールフェローとなる
そうしたころ、ロータリー財団に寄付をしたことが賞芒れて、は
るばるシカゴから、ポールフェローの栄誉をおくられました。
 
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宍・ハロ、宍ごく恬濡している往印け果辻して祁白∧に争い白石田や征服し七人は言ツるのてはな
い白これ匹内外の回腸に旧・しして言ツヤ言回と聯兄 そこで`言説に言ブ回によってぽか
えフム言胎言ミ≒べにべ隠言うか。
 今回○坤鸚胆いれている池飽j、‐ク矢らノ語ド.y宍・,四……回に………‥y.、..、”ぺ/,ハ………Jq‐
〈き漿七01〈ス漱ズ博三
    :癩報伝統の実力を発揮:・
           下 地 玄 信
秀吉に争い聯玉野回す言言を、一部の人はU副の悛宋に目を
ぅ・。言ド言ヤ斗几ろ帽言こ罵八九言づサいい、引率凸昌
則顎岬ブ説の母言ツ図てあ員≒ぬヅ円といぅ。凪けづJ・O
ろと。豹ツ貯ゾ六工一言ケ八百ム几べしかし言レブ言は
スづハ凸則旱ヤ斤づ半もしていベレ。こハをゾヅし、こ肌
っニス’ぶ..一心ヽハ円聯に打八いスて映心か八円寸寸バ言……・・、四辻川浅川.即
平一枚で他村校長に児童の奨学資金を贈る
大阪り下地玄哲氏
言言プ呉彩ると厄ぅか帽水
石。
 新開○使⑤燧石こ次いで述べる
フ宍凸『べい。た仁冊彭いかに
不入見高石印だけかいいたい。凪
淀九十半米址サ桓塵・言渥る巡
営、巾バをレス崇眉特につ白に
赦言長犬回○谷ツ示、三十
年米牡が特出なる閔隔を持つ圖日
訴問ゾ言刀胆訪仏ら見て新聞
の勝詣・爪大穴仔牛バ予かし
さを人一倍圧じてい豆汁にわが
万作胆犬が永年○]尚と実力を十
二分に亮卸しぺ今日、仲痛几十
万日脂のと亘言遜とつ嶮ビ示
してち・らうようよ‰するととも
に、壮言ツ言豺寸尺仁心を俎た
され石こ言晏心ヤ渥ツん入良
他ん。
 
(日本公認余計士協・臼顛問い
琉球新報(昭和38年9月28日号)の記事
弓子芒もたちのため北小枝ヤ図書贈る
特後輩の成長を見守る
大阪に在任す北小校の図書館が充実山内朝源校長の話
る本部出身のするまでは継続して図文化に恵まれない母埓
下地玄價氏{僣を贈りたい意向(さの後輩を激励し、立派
日太計理土亘さに宮古毎日新聞社瀞な日本国民として育つ
副会長)はこ山力朝保氏が石凛雅吉ていくようにざ、嶋会
乃晋ど荒求剛S一aりロりQF』R呂っ矢あるごとに図書を贈つ.
副会長)はこ山力朝保氏が石原雅
のほど琉球新一郎伝の印刷を京都の
報ナ阪支局孝販社に依頼するため
通じ北小校へ日したさい、郷土の
図書を賠つト
図書の種類は
県竜読物、国語辞典
学習辞典等二百五十冊
C金額は日円の十万円
相当のものである。
下郷玄贋氏は一九五九
年頃も四百冊の図書か
寄贈しているが、木十
を遠く離れ巾央の文狸
にもうとく,読物等r
も不じ由で恵まれない
母校の後輩たちの心の
糧に、ざ深い愛情と貞潔
を傾け、一守っており、
輩として下地氏を訪問
したおり、山内氏に勅
してももらしていたと
のこと)だとい5.
下地玄信氏のいつも変
らぬ母校に対する美し
い愛情と教育に対する
温い心づくしに、学校
取扱、児童、学区民け
て下さる下地玄信氏の‘
りるわしい愛情に心か
ら感謝していZ・。仝F
の意のあるところを陳
し、子どもたちが郷ふ
にの
つ大
先輩、下地玄信F
づいてりつ源な人
財になるよxノ、教育の
ため全力を傾倒したり
こ5することがまた、
1地氏のご恩に報いる
乙とにもなると思つア
心から感謝している。」いる。
121
宮古教育時報(昭和39年5月1日号)の記事
 
 
 
平良市名誉市民へ
 
昭和37年6月一一
平良市長、真栄城徳松は、下地を名誉市民として表彰することに
きめました。
公認会計士として、国際会議などに活躍されるとともに、郷土の
発展にもふかい関心をよせられ、特に教育振興のため、氏の母校平
良北小学校に下地文庫を設置、毎年児童図書をおくられ、なお官古
高校にも同様、文庫を設置されるなど、社会文化の進展にいちじる
しく貢献された功績一一によって、晴れの名誉市民がおくられまし
た。
この名誉市民は、台帳に登録番号第3号として、永久に記録され
ています。
日本復帰をまぢかにひかえた昭和46年の12月6Eトー一
玄哲はふたたび、郷土、宮古をおとずれました。
空港には宮古支庁長をはじめ、平良市長や各界の代表者たちが多
数つめかけ、なかには、下地玄哲をひと目みようとつめかけた市民
の姿もありました。
市野村会主催の歓迎昼化合や懇談会のあと、夕方からは官民合同
 
 
平良市名誉市民となる
による歓迎会がひらかれました。
集まるもの150人一一。
平良市長からあいさつと記念品がおくられると、上野村長からもさらに記念品がおくられ、最後に昔なつかしい小学校の同期生、他聞昌増さんから、小さいころのエピソードがひろうされると、会場は急になごやいでまいりました。
思えば、いったん志をたて郷里をはなれて異郷に暮すこと幾星霜、ようやく錦を着て、故郷の土をぶかことのできた自分を考えると、劫いころ几思い出が走馬燈の上うに脳裏をかすめては去るのでした。