公認会計士を夢みて 大正12年り月の1日、正午…… ぐらぐらっと突然、関東一帯をおそった大地震は、またたくまに東京をなめつくし、早い火の千は、すっかりこの大都会を焦土と化 してしまいました。るいるいたる死骸があちこちで焼けだされ、みるも無残なすがたにかわりはてました。 数十万という尊い人命がぎせいになり、脂からがら逃げのびるのが精一はいでした。 千びろく東京で事業をしていた森俗心、この犬災のぎせい者の一人でありました。 神奈川県でやっていた事業が全滅すると、資金のやりくりがどうにもたたず、ながい思素のすえ、森はとうとうこの事業の閉鎖を決 意しました。 会社の解散で、とうとう仕事を失った玄哲は、身のよりかたについて、森と相談をいたしました。 「性格上、おまえはお金をもうけるたちではない。 アメリカやイギリスなど先進国には公認会計士という職業があって、社会的にもたいへんおもくみられ、今後ますます有望だが、ど うじや、ひとつおまえもそれをやってみては?日本ではまだまだ未知数だが、世の中がすすむと、どうしても必要になってくる。 人に先きだって、まずおまえが先べんをつけたら……?」 きいたこともない名前の仕事だな、とおもいましたが、過去、数年のあいだ、三井でみっちり実務にたずさわった経験もあって、玄 哲は森の言葉を信じてこの仕事をはじめてみようと考えました。そして、仕事がら、日本の商都、大阪が一ばんよいとかんがえた彼は、 新しい第二の人生を開拓しようと、住みなれた焼野が原の東京をあとに、いよいよ大阪むけて出発したのです。 やがて大阪につくと、もと慶応大学の先生をしたこともある竹内恒吉という人の会計事務所で、見習いとして働くことになりました。 大阪のまちにもようやくなれ、まもなく一年がすぎようとしたある日のこと、突然おもわぬ事件がおこったのです。 選挙違反でたいほされる ある日、玄信は会計事務所で、佐久田昌章という見しらぬ人の訪問をうけました。 この人は、玄信とおなじ郷里の出身で、明治大学を卒業後、東京のある会社につとめていましたが、そこの重役の手塚というひとを 沖縄から代議士にかつぎだそうと計画、その相談を玄信にもちかけたのでした。 とっぴな話に、玄信は最初とまどいましたが、佐久田のあまりの熱心さに、とうとう、選挙のため応援をひきうけることになりまし 仁、こっそりと手わたされた札だけを一ぱいカバンにつめると玄哲は、いよいよ選挙をまえに現地、沖縄へわたるや、もちまえの血気にま かせて沖縄本島はもとより、先高方面までひろく足をのばし、くまなく遊説、猛烈な選挙運動をやりました。 おかけで投票の結果、手塚氏は当選、玄哲の苦労はここにようやくむくわれたのです。 しかし、そのよろこびもつかのま、まもなく伸縮から犬阪にもどった玄哲をよっていたのは、はなやかな論功行賞ではなく、逆に選 挙違反にからまる警察のたいはでありました。大阪から鹿児島をまわり、那覇に連行された玄信は、ひと月ばかり留置場にこうちされました。 生まれてはじめて、とらわれの身となった彼は、今さらのように自分のあさはかな言動を後悔しましたが、しかしもうすべてはあとのまつりでした。 昼なおうす暗い独房はいんきで、しめっぽく、おまけに夜となく銃となくおそいくる蚊のむれに、ほとほと玄信は悩ま弓れました。 あるときは、あんまり蚊をたくさんころしたため、独房のゆか板が血でまっ黒になり、看守から小言をいわれたこともありました。 しかし、どんな逆境にあっても、それをのりこえて、マイナスをプラスにきりかえるという考え方は、まえから玄信の執念でありました。 遠く妻子とはなれ、ひとり那覇の独房にあって、まもなく法のさばきをまつという不名誉をかこちつつも、毎日がひまでたいくつな のをさいわい、独房そなえつけの文庫本を、かたっぱしからよみあさったのです。 それまで、なんのかかわりもなかった宗教や哲学の本も、このときはじめてよむようになり、ふかい感動をおぼえました。 ニのよまでは運動不足がたたって体をこわすかもしれないと心配Λ!玄仁にに日課をきめて毎日、きちんと適当に体操や休養などを したおかけで、退所のときは以前より一貫目もふとるという珍現象をおこしました。 やがて裁判がひらかれ、罰金加円の判決がくだりましたが、この時の裁判官が、皮肉にも玄恰の県立第一中学時代の同期生、当間重 囲であったことは、ふしぎな奇縁でありました。 一流財界人の仲間へ 裁判のあと那覇から、ふたたび大阪へもどった玄哲は、すでに竹内会計事務所をクビになっているのを知ると、同僚の中島とはかっ て、会計事務所をひらこうと考えました。この中島は長崎県の出身で、さきの竹内事務所で知リあった先輩でした。 しかし、新しく事務所はひらいたものの、オイソレと仕事もなく、そのうち生活もだんだん苦しくなってきたので、なにかアルバ イトでもさがそうとおもっているやさき、大同生命という保険会社の外交員の仕事にありつくことができました。 来る日もまた来る日も、知人や友人や先輩のうちをたすね、なんとか保険に加入してくれるよう説得しているうちに、交友もだんだ んひろくなり、本職の会計事務所のほうも、ボチボチ仕事もふえて、ようやく軌道にのるようになりました。 人を知ることの大切さを、それがまた唯一の資本でもあることを、玄信はようやく身をもって休験したのです。こうして保険の外交員 をしながらも、社会のトップ・レベルの人だちと、つとめて交友しようと考えました。 犬丸の森三郎助という社長から、玄倍加おばえられるようになったのもそのころで、当時、大阪一流の社交場、弁|亘クラブにつれら れてはごちそうになり、そこで多くの有名人や一流の財界人たちとも交友をもつようになりました。 いつまでも、おなじ沖縄人同志のせまいつかあいからは大きな成長はのぞめない、一流の財界人だちと交友をふかめ、自分をみがく ことこそ、将米大きくのびる道だ……と玄信は考えました。そのため、なんとか自分も有|亘クラブの会員になりたいとおもい、森社長 にうちあけました。 「会員になるには、人格も識見も力量も、それ相応の人物であることが条件だが、まあそれはど熱心なら、わたくしからすいせんし てあげよう」下地玄信の名が会員のなかに、だんだんしれるようになると、いろいろ公私の会合や集まりなどにも顔をださねばならず、仕事の多 忙きとあわせて、いよいよ精神的にも金銭的にも、負担が犬きくかかってまいりました。 一流の財界人たちの仲間にはいるには、マナーや言葉づかい、服装の面で紳士であることがまず条件でした。 借金して、玄信が勺っぱな服装をととのえたのも、ひとつはそのためだったのです。 人さまから一たんお金を借りた以上、その借金は当然かえされば
ならず、そのため玄信は、人の二倍も仕事にせいをださなければならないことは、充分承知のうえでした。 頭や常識のてんでも、ひろくふかく教養をつまなければならないと痛感した彼は、実力をつけるために、いろいろな勉強に没頭いたしました。 やがて、こうした玄信の努力は実をむすび、弁巨クラブの常任理事にすいせんされると、さらにもう一つの有名クラブ、清支社の理 事をも、あわせてかねる上うにえらばれました。下地玄信の名は、いまや名実ともに堂々と全関西の実力者だちと 肩をならべて交友をするまでに出世したのです。 アジア協会支部長に 東亜の情勢が緊迫をくわえ、いちだんと世界があわただしさをみせはしめた昭和7、8年のころ。 満洲事変がおこり、つづいて支那事変がぽっぽつするや、アジアの平和はくずれ日本国内は急速に軍国調がおこりはじめました。町 今村は戦場へおくる兵士であわただしく、人びとは重くるしい空気につつまれたのです。 そのころ、西欧のアジア侵略にそなえ、アジアの国ぐにはうって一丸とならなければならないという主旨から、陸軍大将松井五根は、 政治家永井柳太郎らとともに、大アジア協会をつくろうと、協議を かさねました。 松井大将は、このアジア協会の関西支部をつくりたいとおもい、来阪、たまたまある機会から下地玄信の名をしろようになると、人 かねてから、心ひそかに中国問題に関心と野望をいだいていた下地は、わたりにふねとこれを承諾、協会の発展のために寝食を忘れて東奔西走したのでした。がらにすっかりばれてしまい、ぜひ協会の支部長をひき引するようたのみました。 アジア民族大会日本代表として(昭和17年) 松井大将(中央)と下地玄信(後列右) 国の布石としてこの難局に大きく仏参回しようと、真剣に考えれば考えるほど、 下地の心は熱気にもえ、いよいよ意気さかんになるばかりでした。 彼の周辺には、いつも軍人の関係者が往来し、後年おきた2 ・26ド牛回遊座した青年将校たちも、このころ下地とふかい交流があり、 ひんぼんに豹ってば東亜の平和、いや世界の平和について談論風発レレlハに八にケ)づきました。 大政翼賛会の理事へ 日に日に険悪な栓箱をていしていった日本と中国は、とうと引薗洲事変を契機として、不幸な戦争に突人しました。戦火はたちまち、 満洲から中国全土へひろがり、やがて太平洋戦争というかなしい事態をむかえるにいたったのです。 そうした前夜一一一一 日本は国をあげて臨戦態勢へとかわり、津々うらうらに大段鼻具会が誕生すると、松井大将のひきいる大アジア協会は、発展的に解 消レここに大政鼻具合の興亜部として、よそおいもあらたにスタ-トいたしました。 この大政翼賛会の設立は、いまアジアの国ぐにが団結しなければ、いずれ西欧諸国から侵略される可能性がつよいという見地から、そ の必要が急速に意義づけられたものでありました。近衛文巻公が総裁にまつられると、松井大将は興亜部長になり、下地は理事に、そ れぞれ就任がきまりました。 アジア協会から新しく翼具合の常任理事となった下地は、時局の重大さをひしひしと痛感、文字どおり夜に日をついで、全力投球したのです。 あけてもくれても、毎日が下地にとっては緊張の連続で、はなやかなひのきよたいのうらは、一歩まかりまちがえば身も危険にさら されるという、まったくいちかばちかの時代でありました。 下地が、中野正剛のひきいる東方会のめんめんと、ひんぱんにゆききしたのも、ちょうどこのころのことで、また一戸兵衛大将平米 大信正海軍大将、本庄繁大将らとも、じっこんの仲になりま/しか。 2 ・26事件その前夜 満洲国が建国され、新しい時代の波が中国全土に複雑なかげをおとそうとしていたころ、日本をめぐる世界の情勢は、微妙な様相を ていしていきました。ことにアメリカをけじめ、イギリスヤソ逓との外交問題は、いちだんと緊迫刑吏をくわえ、相互の信頼感は、 日一日とうすれてゆくばかりでした。 外務大臣幣原は、なんとかしてニの不信を打開して、理解と友好いじのきづなを維持しようと心をくだきましたが、強大な米英の壁はいぜんとしてかたく、 岡田内閣総理大臣も日に日に苦悩のいろを増すのみでした。 こうした未英に対する日本政府の外交に、かねてから屈辱と怒りと、あきたらなさをいだいていた、一団の血気にはやる若い軍人た ちのあいだには、軟弱外交を打開する唯一の道は、政府の最高責任者である総理をけじめ、内閣の文官からの弱腰をきゅうどんして、 すべからく彼等を殺リくする以外に方法はなしと考え、ひそかに機の熟するのをまつのでありました。 そして、ついに昭和11年の2月26日未明、おりからふりしきる言のなかを、それぞれ数か所にわかれて官邸を襲撃、あるものは日本 刀で、またあるものはピストルで、つぎからつぎへと高官たちを殺りくしてしまいました。これが世にいう2 ・26事件です。 これよりさき、内閣高官殺リくのいんばうを、いちはやく察知した大政翼賛会の近衛公は、このふおんな動きをいたくうれい、与っ そく下地をよび、軍部の若手将校逓と面接し、血のさんげきを未然に防ぎ、ことをおんびんにおさめるよう解決方をこんせいいたレ圭 しか。 さあ、大変な難題をおおせつかった下地は、ふかいためいきとともに、かたく腕をくんですわりこんでしまいました。 まかりまちがえば、自分の命さえあやういニの重大な使命一一-。まなこを静かにとじると、日本の運命が大きくこの一瞬にせまって きたことにハツと気がついた下地は、急に大きく目をみひらいて、すっくと立ちあがりました。 「よしっ…。誠意をつくし、条理をつくして当たってくだけよう…] かたく心にちかった下地は、いよいよ単身、勇をこして赤坂の料亭、幸楽におりから集結中の右翼の将校団をたずねました。 「何者じゃ?」 「近衛公の使いで圭いりました下地です。 おりいってのお話ですが、ひたすら日本の前途を思うあなたがたの赤心は、 まことに崇高で、充分にお察しできます。しかし、血気にはやるしゅくせいの行 為は、おそれおおくも皇室のごしんきんを悩ませもうすことになり かねません。 このさい、自乗に自重なきれて、話合いのなかにこと をおんびんに処してくださっては……」 「なんだと? いまとなってはもはや問答無用じゃ…。そういうきさまも国賊だ…」 つぎの瞬間、がちゃんと音がしたかとおもうと、パツとぬいた軍刀とともに、将校の激怒した声が下地をいかくしました。 「力ヽ之れ……] ドイツ遭難船を救助 明治6年、 陰暦、6月17日のことでした。荒れくるう台風の中を、一そうの見しらぬ異国船が、三日三晩、 激浪にながされ、宮古、上野村、富国沖の暗礁にみるも無残にのりあげてしまいました。 いたいたしく傷ついたうえ、疲労こんぱいした船員たちは、こわれた船にとりすがって、一しようけんめい助けをもとめておりました。 このただならぬようすをみた富国部落の人びとは、さっそくこのことを平良市の在居所に急報、数名の役人たちと款助にむかいました。 しかし波浪がたかく、とてもとても船に近よることができません。 そのうち、日はとっぷりくれてしまいました。万策つきた救助の人びどは、その夜は陸であかあかとかがリ火をたさ、 船の遭難者たちをはげましながら一夜をあかしました。 翌日、嵐のおとろえをみて、人びとは海へのりだしましたが、くリ舟は本の葉のようにゆれ、たびたび岩にぶつかりそうになりました。 それでも、必死になって、かいをこず、とうとう遭難船にたどりつき、船貝たちを無事たすけだすのに成功いたしました。 この遭難船はドイツの商船で、船名をロベルトソン号といい、東洋貿易のためドイツのハンブルグ港を出帆、支那の相州に寄航した あとの帰国の途中で、たまたま台風にあったのでした。 助けだされた船員たちは、数名のドイツ人と二人の中国人で、言葉はぜんぜんつうじません。 やがて、平良市のくらもとにはこばれると、薬や傷の手当をうけ、ねんごろにかいはうされたため、ひと月あまりもたつと、もとの元 気をとりもどすようになりました。 言葉はつうじなくても、博愛の精神は国境をこえて、手まね足まねで、両者をかたくむすびつけたのです。 悪夢の遭難から数十日がすぎて、すっかり元気をとりもどした遭難者たちに、いよいよ別れの日がおとずれました。 在藩所からあたえられた一そうの船にのって、遺難者たちが活水港の岸壁をはなれると、隔人たちは、かねや犬鼓をたたいて別れを おしみ、航海の安全をいのるのでした。 博愛記念60周年祭 ドイツ皇帝、ウィルヘルム一世は、ドイツ国民の遭難にさいレ宮古島民のよせた勇気と人類愛にいたく感激、使者を派遣して、記 念の石碑を宮古へちくりとどけました。明治9年の2月、遭難からかぞえて3年後のことでした。これが世にいう博愛記念碑の由来なのです この美談は、のち日本の国定教科書にもかかれ、ひろく国民にもよまれ、また下地玄信の心をもいたく感動させました。 盛大に記念祭をもよおして、これを広く世界にこうようしようと考えた彼は、日本とドイツの親善のためにも、60周年記念祭をもよお したいとおもい、さっそく関係方面にわたりをつけました。 まず、沖縄師範の附属小学校で、まえに先生をした稲垣国三郎先生を訪問、協力をあおぐと、その足で上京、ドイツ大使館をけじめ、 外務省や参謀本部、陸海軍の関係各省をおとずれたのです。そのころ、日本はドイツやイタリー国と三国同盟をむすんで、ま すます親善をふかめていたやさきなので、ドイツ大使館はこの行事 に全面的に賛成、かたい協力をやくしました。あけて、昭和11年11月14日 博愛60周年記念祭が、いよいよ宮古島でおごそかにおこなわれ、沖縄本島をけじめ、日本政府を代表して知名上が多数つめかけまし た。 ドイツ政府からは公式代表として、トラウツ博士夫妻らが参列して、人目をひきました。 あいさつに立ったトラウツ博士は、全ドイツ国民を代表して、宮古の人びとの勇気と人類愛に感謝するとのべると、われんばかりの 拍手加わきおこりました。 ドイツ政府から鉄十字章 稲垣先生をけじめ、大阪の沖縄県人たちの協力と、綿密な計圃のもとに博愛記念式典を成功裡にみちびいた下地玄哲は、その功労が みとめられてドイツ政府から、鉄十字章という勲章座おくられました。 盛大な言古の記念行事に偕行して、大阪でも芝居や映画が演ぜられ、博愛美談はいまや全国にひろく宣伝されたのです。 近衛文度会は、ニの行事に大変関心を上せ、わざわざ下地のため筆太に、「博愛]の文字をきごうしておくりましたが、ニの書はい まも、宮古平良市の市役所に大切に保管されています。記念式典のもよおしで、東京九段の偕行社をねじるに、数度にわ たってドイツ大使館を往復、交渉をかさねていたある日のこと、下地はひとりの憲兵からよびとめられ、つよく注意をうけました。 「あなたが、ドイツ大使館とあんまり親しくされたのでは、あとでこまることがおこります。われわれ日本とイタリーとドイツの同 盟国は、英米と戦っていずれ勝利をおさめるが、しかしそのつぎは勝った国同志、つまり日本とドイツが戦争することになるかもしれ 昭和10年8月 大阪歌舞伎座で。下地(左端)と豊川弁護士(右端)ません。 いまは、同盟国であっても、将来はお互いに敵国になるかもしれ ないので、あまり日本の情報をながさないよう注意してばしい…」 下地は、きつねにつままれたようでした。 松井大将とソ満国境へ アジアは一つとしの野望をかためてしました。 昭和17年9月 うスローガンをたてて、た日本は、はやく新しく誕生した満洲国の建国10周年を・・ 都の新京で盛犬にひらかれるこハあまなりりの高官たちが招待をうけました下地もはれて、も満洲で新しい政府をつくわって 着々と中国人陸に進出り記念の式典が首日本からもおよそ200人 ニの式典に国賓とし寸参列の栄誉をあたえられ、松井五根大将らとともに、わざわざ朝鮮の谷山まで特別列車をした てて迎えにきた鄭総理に案内されて新京へむかうのでした。 おごそかななかにも はなやかに式典がおわると 皇帝にはいえつの栄をたまわり 下地は満洲国 親しくお言葉をたまわりました。 式後、関乗車の梅津司令官の特別のはからいで、松井大将ととも に、ソ満国境を視察のため、戦闘機上のひととなりました。 ゆけどもゆけども果てしなくつづく大陸の広野をとj 松井大将の筆 やがて戦闘機が黒龍汪の上空にさしかかると、パツパツと地上から射撃をうけ、はっとかたずをのみま七たが、ソ建軍が警告のため発 砲したものとあとでわかり、あらためてソ建と日本の、複雑微妙な国際情勢をおもいしらされるのでありました。 汪主席と二人で飲みあかす ソ満国境にたむろしていた皇軍の慰問視察をおえた下地玄信は、その足で、南京を訪れました。 要務は、近衛公からあずかってきた親書を、中華民国国民政府の汪精衛(兆銘)主席に手渡すためでありました。 堀内大使に案内されて、一応の儀礼的なあいさつがすむと、下地はあらためて、汪主席から、ぜひ今晩、二人だけで夕食したいといわれました。 主席の意向で、大使以下、護衛の人たちがさがったあと、めずらしい山海の珍味を山と盛った中国料理に舌つづみをうちつつ、中国 の名酒、紹興酒をかんぱい、かんぱいで飲みはしてゆくうちに、いつしか下地はとうぜんとなり、けては軍歌までとびだす陽気になりました。 また、汪主席も大へんなめいていで、あけすけに何もかもうちあけました。 「下地閣下、実をもうしあげると、私はもともと野人の生れです。日本車から新中国の土席にまつられて、犬へんきゆうくつで困って います。何につけても不自由で、毎日、日本の憲兵から監視されて、カゴの鳥同様です…] 昭和17年12月来朝の際の汪主席(右側)意外な心情をざっくばらんにうちあけられた下地は、あらためて汪主席の正直で誠実な人がらにひかれました。 「そうですか。お気の毒におもいますが、東亜のためにしばらくごしんばうしてくだ芒い…」長いながい夜でした。 下地は、とうとう主席官邸で酔いつぶれ、大きな声で軍歌をうたったのです。 見よ東海の空あけて旭日高くかがやけば………… 汪主席は、かつて日本の大学ですんだこともあって、多少日本語をしやべれました。 また、下地も学生時代を上海ですごした経験もあって、中国語の理解かありました。 こうしてふたりは、日本語と中国語をチャンボンに、たがいの意志をつうしあって、まるで百年の知己のような親しさのなかに、き ょうきんをひらいて語りあい、夜のふけるのもしらず、おそくまで飲みあかしてしまいました。 飲むほどに、酔すほどに、もう幾時間がすぎたのでしょうか。前後不覚となった下地は、とうとうホテルにかつがれてしまったので す。 大浜信泉とかちくらべ 沖縄県人で、はじめて早稲田大学の総長にえらばれた大浜信泉は、石垣市の出身で、下地が県立第一中学校にかよっていたころ、師範 学校の生徒でした。学校がおなじ首里ということと、二人とも先高出身という境遇が、いつしか二人を仲のよい友だちにしてしまい、 夏の休暇など一しょに故郷へかえるのが常でした。 「八重山」だの「宮古」だのと、けいべつされたくやしさから、一生懸命勉強して、きっとみかえしてやるぞと、二人はたがいには げましあいました。そのかいがあって下地は、抜群の成績で中学校を卒業しましたが、 大浜はわけがあって師範学校を中退、すぐ上京して早稲m大学にはいり、長い努力がみのって、とうとう総長の栄誉をかちとったので した。太平洋戦争の前後をとおして、下地が近衛公の部下として国際的に太活躍をしていたころ、大浜は早稲田の一教授でありました。二 人は、どちらがさきに人生の勝利者になるかをモットーに、東京と大阪でがんばりつづけたのです。 しかし、敗戦とともに、マッカーサーの指令により、ついに公職追放といううきめにあうと、下地は心中、大浜にさきんじられたこ とを淋しくおもいました。「ぐずぐずしてはいられない、これから僕の人生はやりなおしだ」 下地は新しい時代の波を感ずるや、経済都市大阪でがんばろうと、かたく心にきめ、あけてもくれても頭からきえないのは、財力への 執念でありました。 そのころ 早稲田大学の法科をでて、大阪に単身のりこんで弁護士を開業していたおなじ沖縄出身の豊川忠進とつれだっては、よく道頓堀のさ かり場をのみあるき、社会探訪もするのでした。ある晩、二人はなじみのいろは食堂の二階にあがると、あわもりに牛肉の飲みくらべ、 食べくらべをしましたが、軍配は休のでっかい大食漢の下地にあがりました。 ふかい酔いごこちに、陶然とうつろな下地の目に、はやネオンの明滅がまぶしく、いつしか彼の口から、かかしなつかしい沖縄の歌 があるときは高く、あるときはひくくながれていきました。いとま乞いんともて、もちやる否や涙あわむらち、のみんならん 村山家の事件を見事に解決 朝日新聞社の社主、村山選手がなくなると、村山家では相続税をめぐって犬へんな難問題がもちあがりました。 生前、この村山社主は、書画やこっとう品の熱心な収集家で、家じゅう一はいに刀剣をはじめ、古今のめずらしい美術品をところせ ましとかざっておりました。 なかには、一点で当特赦十万円もする非常に高価なものもありました。 村山社主がなくなると、多数のこっとう晶と朝日新聞社に投じたばく犬な株が、税務署から目の王のとび出るような重い課税の対象 にされたのです。このままでは破産もしかねないと、びっくりぎょうてん、すっかりこまりはてた村山家は、この難問題を下地公認会計士にうまく解 決してばしいとたのみこんだのでありました。 しんちょうに、しんちょうを期して朝日新聞社と毎日新聞社の財産をこまかにしらべあげた下地は、両方を比較検討した結果、毎日 新聞の株のねだんを百円、朝日の株を百四十円とみつもりました。 大阪朝日新聞社参観記念(右から5人目が玄信) 犬と散歩する下地玄信(自宅正門で) しかし税務署では、朝日の株に対レ毎日の五倍という目の玉のとび出るみつもりをしてきたので、下地はその不当をつよく責めま した。「やったるぜ…」 一生一代の勝負ときめこんだ下地の執念は、すざまじいものでしした。くる日もくろ日も税務署をおとずれ、理路整然と誠意をつくして 折衝したかいあって、とうとう税務署も折れ、おまけに納税の方法も年賦でよいということでおさまりました。 さあ、村山家のよろこびようといったら、天にものぼる気持ちでありました。 いまや難問を未然にすくってくれた犬恩人に対し、村山家ではたくさんの謝礼をさしあげたほか、わざわざ一軒の家屋まで新築レ さらにハドソンという新型の高級車までおくって、その労をねぎらってあげました。
はじめてのわが家 それまで長いおいた、借家すまいをしていた下地は、はじめて自分の家をもつことができ、おまけに車のプレゼントもあって、いま まであじわった二とのないさわやかな気分にひたりました。村山家からおくられたニの家は、やしかだけでも1,500坪という ぼうだいなもので、人々から、朝日新聞にちなんで朝日會館とよばれるようにな‰いっぱう、車の便利さもあって、仕事も一だん忙 しさをますようになったのです。 こうして幸運をつかんだ機会も、かんがえてみれば一流社交クラブの会員になって、多くの財界の人びとをしろようになったおかけ で、いまさらのように人をしろことの功徳を、しみじみとかみしめるのでありました。 またそうしたころ、もう一つの事件がお二りました。 それは、かねて旧知であり、成田不針尊の俗徒総代でもある桧下幸之肋与んから電話があって、成田不勤爆にからんで悪質なデマの 投書が新聞にでるそうだが、未然に善処できないものか、という依 自宅の花壇で楽しむ下地夫妻 頼でした。 成田不動尊で豆まき下地も成田不動尊の信徒のひとりでヤづしたので、ニの依頼を うけると彼は、さっそく警察や新聞社へとんでゆき、スキャンダルの真偽をくまなく調査しました。 すると、この投書の動機が、実はあるえんこんから出ているニとがわかり、事実はまったくの無根ということで、無事ことなきをえたのでした。 成田不動尊のよろこびようは犬へんでした。 かすかすの謝礼のほか、毎年2月3日の節分がくると、終身年男として下地は、福は内、鬼は外、と豆をまくならわしとなりました。 自宅の庭で(昭和48年番) 夫人翠子さん(自宅の庭で |