いま西郷や-い


秋のはじめとはいえ、まだ南のくには、残暑のきびしい日がつづいていました。
年に一度の運動会は、村や町の人びとにとっては、それはそれはたいへんなよろこびで、生徒たちも、その日のくるのを一日千秋の思いでまちわびるのでした。
「ヨーイ、ドン]
生徒の一団が、いっせいにかけだしました。もう、ざしものひろい運動場も、生徒たちのリレーやゆうぎの練習ではなやいでいます。
それまで運動場いっぱいに、つよい人日をなげていた太陽は、vつしかそれらかいかげりとなり、あたりはだんだんと夕ぐれてゆくのでした。
玄哲少年は、すこしもつかれたようすもなく、元気な足どりで、学校をあとに家路をいそいでいましたが、
とある四辻へさしかカったとき、突然どニからともなく、大きな声がいたしました。
「や-い、サイゴー タカモリがきたそ………」




西郷隆盛という名前は、だれいうとなく、いつしか玄信少年のあとくいだなとなり、大がらで、
特異なその顔だちは、ほんとうに西郷隆盛そっくりで、クラスの学友たちは、けんかにつけ、じようどんにつけ、彼のことをこうよぶようになったのです。
そのころ、少年の家は平良市の北、東仲にあって、ひとびとはその屋敷を、志多伯とよんでいました。
家のちかくにはプカマサーという御嶽があって、学校からかえると、玄哲はそこの大きながじまるの本のうえにのぼっては、青い空
をみあげ、たのしい少年の夢をおうのがつねでした。
「よしっ…。学校をおえたら、ぼく、うえの学校へいくんだ……」
少年の近所に武島勇という校長先生がいて、よく玄信をつかまえては「おまえは今西郷じゃ。しっかり勉強して、将来はきっと西郷
どんのように、りっぱな人になるんだね…」と、いつもはげましてくれるのでした。
玄信はこうした言葉をきくたびに、ふかく心にうなずき、やんちやで、あばれんぼうだった彼は、いつのまにかまじめに勉強にうち
こむ少年へとかおり「きっと、きっとがんばるぞ…」と、心にかたくちかいました。
また受持ちの佐久田昌教先生も、ことのほか玄信をかわいがっては
「おまえは、うんと勉強して沖縄一、いや日本一の人になるんだぞ…]とつよく言いきかせました。






















玄信のおいたち

明治のなかごろまで、首里や那覇の役八たちが、遠く宮古や八重出島に転勤すると、ひとり身のさびしさから、いつしか島の娘とね
んごろになることがよくありました。これをウヤンマーといいまし仁玄哲の祖父も、平良から遠い多良間島にやられたことから、島の
娘としたしくなり、とうとう男の子をもうけました。この男子こそ、玄哲少年の父、玄忠であったのです。
幼少のころを長く多良間ですごした玄忠は、思い出もかなしく、平良市にひ存あげると、家を東仲のプカマサーという御嶽のちかく
にさだめ、家畜のあ存ないのばか、はばひろくいろいろな商売に千をだし、一生懸命はたらいたおかけで、ひとかどの財産を存生存あ
げるまでに成功いたしました。
明治27年6月30日
両親のあいだに下地家の長男として生れた玄俗は、幼いころから人なみはずれて身体が大きく、そのため近所や友だちなかまから、
「のっぽ」だの「今さいごう」だのとよばれるようになりました。小学校に入学してからも、玄哲の背たけは、ますますのびるいっ
ぽうで、大きければ大きいだけに、彼の言動は、それだけ周囲の人びとの注目をひくのでありました。
おまけに大へんな力もちで、クラスのすもう大会ではいつも一ばんでしたが、心はやさしく、そのうえおもいやりもふかく、友だち
みんなからしたわれました。
たいていこわきに本をかかえ、ひまをみてはそれをよみふけり、とくに少年世界という雑誌は、ヨーlコッパやアメリカの珍しいくに
の出来事などもかかれていて、少年の夢をかきたてるに充分でした。
みるみる学校の成績がトップになると、玄哲の向学心はますますもえ、きっとひろい天地へ出てもっと勉強したいと、遠い将来のこ
とをゆめみるのでした。





宮古のいなかっペー

佐久田先生から、首里の県立第一中学校に進学するよう、すすめられた玄信少年は、ようやくのことで、両親の理解をとりつけると、

もうそれからは、がむしゃらな勉強がつづきました。
明治41年の春、3月。
中学時代の玄信
 (左から2人目)

わきめもふらずがんばったかいあって、見事に合格の栄冠をかちとると、玄悟は胸ふくらませて勇躍、はじめて故郷の宮古島をあと
Cしました。「身休には充分気をつけて、がんばるんだよ…」両親をはじめ、小学校の恩姉や級友だちからあたたかく見送られ
て底本港を船出した玄信の心は、はやオキナワの空にとんでいました。
はじめてみる沖縄、静かでこたんな首里の町、県立第一中学校は坂のうえの高台にありました。
いよいよこれからは中学生として、この学び舎で勉強ができるかとおもうと、玄信は感激万謝が一はいでした。
しかし、こニに思わね出来事が彼をよっていたのです。
いなか
 「や-い、ナークー(言古)の田會っペー…」
 那覇や首里出身の学友たちが、玄哲をいなかもの呼ばわりしたのです。
          いよう  はじめてきく異様な言葉は、少年の心をトゲのようにさし、玄信はいくたびか、人しれず、くやし涙にくれました。

  「よしっ…。いまにみていろ。一生懸命がんばって、クラス一番なって、みかえしてやるぞっ…]



涙をふくと、玄信はキッとくちびるをかみしめました。
そのころ、おなじクラスに佐喜真興英という立野湾出身の生徒が
いなかいて、同じようにみんなから田會っペーとよばれておりました。

 玄信は彼にいたく同情、ともにがんばろうとかたくちかいあいました。

 第一に成績の面で競争しよう。第二に碁につよくなろう。
第三に学校では英語以外の言葉はぜったいに使用しない。もし違反したら五厘の罰金だ

 二人はもうがむしやらに努力しました。おかけでいよいよ卒業のときは、
そろって一中創立以来、抜群という見事な成績をかちえたのです。







中学時代の玄信 (右端)



努力にまさる天才なし

「オイ…、あの下地のやつ、いなかっペーのくせに、一番たってさ…」                        〉
「へえ?…」
 玄信の成績が県立一中ではじまっていらいの抜群という噂が、学校中にパッとひろがると、それまで彼をあざけっていた連中はレ急
におしだまってしまいました。ひそかにちかいあい、はげましあった佐喜真との約束が、ここにようやくみのったのです。
男子志をたてて郷関をいづ、学もしらなずんば死すともかえらじニの詩は、いつしか玄哲のもっともすきな愛語句となっていきま
した。英語の力をつけるため、標準語も沖縄方言もぜったいにつかわないとちかったことは、英語をとおして彼の目を大きく世界へむけさ
せる結果をうんだのです。

下地玄信の近影
後年、東亜同大言院を卒業すると、再三にわたり日本側代表としてヨーロッパを訪問、かすかすの貴重な氷験をつんだのも、もとは
といえば、若いころのきびしい訓練や精進のたまものだったのです。また、日本棋院から五穀の免状をおくられたり、碁をとおして財
界や社交界で、たくさんの友人や知人をえたことも、中学時代の精進のおかげでありました。
それにしても、あればどの秀才を発揮した奸計于、佐真貴陽英が、一高から東大へとすすみ、卒業のあかつきはひとかどの裁判官に出
世したものの、まもなく急死してしまったことは、玄帽をふかく悲し土廿ました。

「どんなに添加よくても、身体加よわくては、なんにもならな・,教育も大事だが、なんといっても、まず健康だ…。玄倍はいくど
もこう自分にいいきかせるのでした。
 それからというものは、人一倍健康に留意したおかけで、80才の高卒をむかえたいまも、壮者をしのぐ元気さに人びとはおどろくば
かりです。